昭和49年09月30日 朝の御理解
御理解 第9節
「天地金乃神は宗旨嫌いをせぬ。信心は心を狭う持ってはならぬ。心を広う持っておれ。世界を広う考えておれ。世界はわが心にあるぞ。」
先日、生長の家という宗教がありますね。「白鳩」という本が毎月出ておるのを、たまたまバスの中で読んでくれと言うて頂いて来ておったから、それを私にそれを又読んでくれと言うので、読ませて頂いたんですけれども。生長の家というのはまあ言うならばあらゆる宗というのは、宗派の言うなら良か所だけ取ったという感じの宗教。中に金光教祖の事も出ておりました。もうそれこそお釈迦様の仰った御言葉。又キリストが説いておった御話。もうあらゆる宗教のお話が載っておるんです。
例えば今日の御理解を頂いて、「天地金乃神は宗旨きらいをせぬ」と、こう言われるけれども、そういう何様でも、神様でも良いというのではないと思うですね。それは教祖金光大神の信心のいわば創造的なもの、個性的な信心と言う物がつらぬいておる。それでいてです、例えば釈迦もなければ、キリストもないという見地に立っての宗教です。金光教は。ある時教祖の前で、その時分のまぁいろいろ発行しておられるあの近所で、いろんな宗教がありました。
で参拝をして来た人が、金光教の信心の素晴らしい事を強調する為に、何々はどう言う。何々宗はこうだと言うて、悪口を言うておった。それを御結界から聞いておられた教祖様が、大変その御機嫌が悪くなられたと云う事です。そして最後にまぁ言わば釈迦もキリストも神の氏子じゃと仰った。だから神の自分の子供の事を、人がとやかく言うておって、親が気持ちの良いはずはないというのが、金光教の建前ですからね。けれどもというて、あれも混じりこれも混じりと、この辺では「ダゴ宗」と言います。
そのダゴ宗的な物ではないと、もう一貫した貫いた物がなからねばならない。言うならば実意丁寧神信心。お取次を頂いて又お取次を願いお取次を頂くという所謂金光教の独特なものです。天地の神様から金光大神に取次助けてやってくれと仰る。その取次によって助かる又取次を受け願うと云う所に、金光教的の独断上的なものを私は感ずるのですけれども、例えば○○という宗教団体なんかはもうよその宗教の話を聞いても耳が汚れる。だから、例えば今まであった仏壇なんかも焼いたり流したり徹底的なですね。
よその人が来てよその宗教の話をすると、おかげを落すという程しに、言わば外の宗教、自分の宗教を絶対の物とする為にでしょうけれども嫌う。昨日は御生誕祭でしたから、まあ本当に有難いお祭りを頂いて、その後を敬親会の方達を中心に、七十以上の御老人の御信者さん方が、丁度五十三名でしたかね。新館ホールで、浪花節を聞かして頂きました。勿論御信者さん方も、一杯一緒に聞かせて頂いたんですけれども、私は、今度の浪花節くらい感動して頂いた事はなかった。
もうすぐ側で横から見せて頂いとりましたから、初めの人は何とか言ってましたね。「筑紫不知火」さんと言いました。あの人は二代目奈良丸・吉田奈良丸を継ぐ人だったそうです。それが女性関係か何かで失敗して、現在になってもう相当年ですけれども。けれどもあんまり堂々とした語り口というか、もう言うなら体全身で語っておられる。横から聞きよるから良く分かるんですよ。
もうそれこそ爪足っておられる。足の爪先までがね、もう浪花節になりきっておられると云った様な、その筋もとにかく上手でありましたけれども、本当にあそこまで行く為には、随分厳しい修行もして来られたであろうと思うたら、もうそれを思う度に私は感動しました。横に繁雄さんがおられましたから話した事でした。これはあんまり(はな)先端語りが上手じゃけん、後のとが語り難かろうと言いよりました。所がどっこい後からの人は、あれは何とか「沖のかもめ」という女流の浪曲家でしたか。
この人も又年増ではありましたけれども、それこそ隙のない語り口でしたね。初めてあんなに揃うた、まあ言うなら充実した浪花節は、私は初めて聞きました。やっぱりおかげを頂いて、一生懸命しかも出し物はね、初めのは義士伝ですか。神崎与五郎東下りした。そして最後に、馬くらいの牛五郎が一心発起して坊主なって、そして墓守りになるという筋の外題でした。次のは孔子肉付きの面ですかね。観世いわゆる仕舞いの家之が、酒の上で名人何々という人の面を庭に叩き付けて割ってしまう。
それが無念さに自害して果てる。そこでその息子が又同じ面造りになってそのたまたま其処から注文のあった面を被って、殿様の前で舞を舞うたまではよかったけれども、どっこいその面を取ろうとした所が取れなかった。それこそ親の執念。又は孔子の一念がその面にこもっておった。そこでとうとうその面造りの家にやって来て、そこの仏壇の前でお詫びをする。そしてようやく面が取れる。
そして自分も一心発起してお坊さんになると云う事でした。昨日のお祭りが終わって、暫くお話を聞いて頂いた中にも私が申しました様にね、親鸞聖人様のお弟子の中に、もと山伏をしておった弁円という人が、親鸞聖人様を殺めよう、殺害しようとまで思うて付きまとうたけれどもその隙がなかった。あまりの聖人様のお徳に恐れ入って、それこそ弥陀のお弟子になり、親らん様のお弟子になったという話をしたでしょう。
私は考えよったら、合楽の場合は、何時もそうなんですけれども、関連性があるですね。それであとから、浪花節さん挨拶に見えてから、もう今日は期せずしてね、ああいう外題になってしまったのですよと言うて、興業主の方が言ってました。いや本当に神ながらの事でした。大体その興業主の方が、花畑教会の総代さんです。金光教の信者さんです。ですからその事が色々信心の上で、お話をした事で御座いましたが。
そういうね、例えば○○宗○○教であったら、とても金光様の広前で、坊さんになった話ばっかりだったら、どうぞ止めてくれ。そげな事すると、神様がお嫌いなさる。とまあ云う様な事になるような宗教もあるかも知れません。けれども私共はです。そこを金光教的に頂く訳です。教祖の教え的な受け方をするから、あの儘が言うならば、皆さんもそう感じられた事もあろうが、まるきり親先生の御理解の様であった。
今朝頂いた御理解と同じだったと云う様なです。ふうに頂いたら、頂いたものに肉が付く様な感じがしますね。お下りが沢山御座いましたから、あれはまあ金額にしたら、あらまぁ随分の事だろうと思いますね。皆お年寄りの方にくじ引きを致しました。まあそれぞれ色々なお菓子ありお酒あり、洋酒あり乾物ありという訳で御座いましたがです。私がその一つ一つのね、例えばお菓子ならお菓子の名前がある。まあ善導寺おこしとか、お酒で言うならば月桂冠とか、花の露とかと云う様なそれがあります。
そういう例えば中から、必ず一人一人が引き当てなさったのは、その人が頂きなさらなければならない御理解が、その内容に込められておるのだと。御理解いわゆる神様の心が、一つ一つの引き当てた品物の中に込められておるのだ。だから、後で私の所に持って見えたら、その事に付いての御理解を頂きますからねと言うておりましたから、昨日は一人二人の方が、すぐ持って来ました。
第一あの稲数の高山さんが、文明堂のカステーラを引き当てとられました。そして、番号が四番でした。だから私が申しました。「それこそカステラ饅頭でフワフワというのと、お互いがカステラ饅頭ごとふわーっとした心を頂かなければならない」と。「親先生それです。私が何時も思いよるとは。それが中々出来ませんけれども、神様から直接そういうて頂くと愈々それに、その本気で精進せねばならん」と言ってました。
同時にこの四と云う事は、普通で言うと四といえば、死になるよと。頂き方なんだけれども、四と頂けば良になる。だから物事と云う物は、有難い方へ有難い方へ、とって行かんならんといった御理解が、この四であり、文明堂のカステーラなんですよという御理解と頂いて、本当におかげを頂いて、カステーラより、その御理解そのものが、有難かったと云う訳です。北野の中村さんが頂く時に、一生懸命神様にお縋りした。まあ今の中村さんの心の中を一杯占めているのは、所謂あの孫の病気ですね。
もう本当にああして参っておりますけれども、もう本当に痩せ細って、この世のものとも思わない様な孫の姿を見るに付けて、どうかして一つおかげ頂きたいというのが、ばばの願いなのです。それで「神様どうぞ私はあすこに沢山並んでおる豪華な景品ではなくてよ御座います。どんな小さいものでも良いから、神様のお心を分からせて頂く様な景品をお差し向け下さい。頂かせて下さいと言うて祈らせて頂いたのが、親先生これで御座いました」と言うて私が応接間で浪花節さんと話している所に持って見えました。
それにはどこか宮崎辺りの何か豆菓子の様な物でしょう。大きな菓子の名前が、がちゃ豆という豆でしたがちゃ豆。豆という事は健康と言う事ですよね。壮健で達者でと云う事です。その健康ががちゃがちゃだと云う事です。どこから見てももうがちゃ豆なのです。それががちゃ豆と書いてあるのが、大きな枇榔樹で作った団扇がありますよね。あの枇榔樹の団扇を大きく書いて、その中にがちゃ豆と書いてある。
だから問題はです信心が、内輪の者の信心一つなんだと。内輪の者が一緒になってです。本気で内輪の家族中の者、親戚の者が信心があるのですから、本気になって一心にお縋りする事になればです。それはもうこの世の物ではない程しの事でもです。一心をもって家族中の者がです。それはどうでも持ち上がらぬ石でも、大勢が掛け声を揃えて持ち上げれば持ち上がる道理だと仰るのですから。
まあ夫婦親子姉妹揃うて、その事を一心に祈らせて頂くという手が一つあるだけだという御理解でした。もうそれこそ、中村さんが願い求めておられる御理解が出ておるでしょう。だから合楽の場合は、どういう中からでもです。中からでも御神意を悟らせて頂けれる。悟らせて頂く働きがあると云う事です。日頃常に大きな心で信心しておるから、どこからでも吸収が出来る。もうあそこからは吸収してはいかん。あそこからんとは、耳が汚れると言った事ではなくてね。
これは金光教の信心。まあ合楽で私が頂いておる。それこそ自然そのものを対照としての生き方を身に付けておるから、どう云う所からでも、私は御教えが頂けれるんだと思うんです。今日は天地金乃神は宗旨嫌いをせぬ。だから大きな心を持っておらねばいけない。心を狭う持っておってはならない。広う持っておれと。世界を広う考えておれと。世界はわが心にあるぞと仰る程しの信心ですから、というて金光様の御信心は、決してダゴ宗ではないと云う事です。
どうぞ。